昭和54年08月17日 朝の御理解



 御理解 第93節

 「氏子は神の守をしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」

 人間が皆んな同じように立派な行いやら、立派な人ばかりであったら見下したり、汚がったりもしませんのですけれども、もうそれこそ百人百様様々なのがあり、自分の気に入るのもありゃ気に入らんのもあり、もう様々である。それでも皆んながおかげを受けなければならんというのです。その為には取次をさして頂くものは、なら皆んな一様に神の氏子としての見方が出来なければならんと言う事、同時にお広前を預からせて頂く者は、お広前を空けてはならんと言う様な事が、これは大変容易い言葉ですけれども。
 取次者にとって大変これは厳しい事なのですね。いつもここ畳半帖にちゃぁんと座っとかなければならんと言う事は、やはり難しい事です私は難しかった。ですから神様が私のような者には神様が、もうお前の居るところが御結界じゃと仰った。そしてもうランニングシャツにステテコ一枚はいとっても、それでお取り次が出来るとも仰ったです。寝とる時には寝ながらでもお取り次が出来るという、あぁそんなら私がごたる例えば不精者でもできるなぁと、成程始めはそうだったんです。
 そして段々人が助かられるようになって、もうその喜びがこちらへ帰ってくる、神様も喜んで下さる。こっちも何か今までの有り難さとは違った、本当に人が助かると言う事の有り難さが段々身にしんで参りました。そしてそれこそ何と申しましょうか、いつの間にか何とはなしにね、足袋を夏でも足袋をはかなければならないようになり、羽織袴をつけなければならないように、いつの間にかなってしまっている。その頃はもうここをいうならば空ける事が勿体ない教えになっとりました。
 そこで私今日思うんですけれどもね、私の様な人間私の様に辛抱力のない私の様な、まぁこの辺の言葉で言うと「ふうたらぬくい」これは今も変わりません。もう兎に角人に物でも頼まれたら、嫌と言いきらんという性分、はぁこんなこっちゃ自分の成功は出けんと思うとっても、結局そのふうたらぬくさが、その引き受けてしまうと言った様なね、それが段々おかげを頂いてま、今日に至っておる。私の様な者でも精進次第では此処までは、おかげが受けられるね。
 そりゃもう本当に人間的に言うたら、皆さんの方がどの位勝れておられるか分らん、此処でね私は一貫して言えれる事はね、それはまぁ顔が違うようにいろいろ違いますから、いろいろ違っていいです。先日からも今教団で言われる事は、もうこの金光大神の生きられ方、いうなら金光大神の在られ方というのです。教組金光大神という方はこういう実意丁寧な方であった。そしてこういう信心をなさってこういう大徳を受けられた。そりゃもあぁいう性格の人だったら、神様がそれこそ一目惚れなさっただけにです。
 そりゃもう私共ではとうてい真似の出来る事では御座いません。だから如何に金光大神の生きられ方とか在られ方と言った様なもの、例えばまぁだ勿論信心好きでおありになったというても、まだいうなら我情我欲と申しますと、ちょっと語弊かも知れません。けれどもとにかく人間は努力しなきゃならん。一生懸命働かなきゃならん、儲け出す為にはこういう、人がまぁ一時間働くとこは二時間働かにゃならんと言う様な、あられ方の時代であってもです。
 いわゆるお百姓なさっておった時代でもです、例えば同じ米を売るられんでも同じ値段なのに、良い方の米を出されたり、さぁ今年は余計取れたといやぁ上納米でも余分に納められると 言った様な事は出きん出きゃあしませんよ、段々信心をさせて頂いて神様からあぁせ、こうせと言われるからまぁ出けるようなもんです。だからそういうところがとても真似の出来るはずはありません。
 そこで私はね私今、古川夫婦がこちらへ今帰って来とりますから、あの学院でいろんな研修やらある時にはね、金光教で今盛んに言ってる金光大神の生きられ方とか在られ方とかいうものを研究しておる。そのとき金光大神の輪読とか金光大神覚えの研究と言った様な事が、なされておりますけども、私もいつも思うのは私はおかげにつながらなければならん、金光大神の真似は出来なくても、おかげにつながらなければ、それには金光大神が天地金乃神様から受けられたおかげ。
 金光大神が天地金乃神様からお知らせを頂かれた御教え、その御教えというものはどういう赤の人でも黒人でもです、言うならば「それを行ずる事によっておかげにつながっていくのです。人間の性根がだらしない人間であってもです、ならおかげが受けられるのです。ずるい人間でもおかげが受けられるです。だから私はおかげにつながる生き方、金光大神がいよいよ、いや金光教がいよいよ発展する事の為には、金光大神の在られ方といった様なものは、特別なね人達が研究されたりする事はよいけれども。
 これを信者一般に言うてどこにそれならおかげにつながるかと、又そんな真似が出来なければ おかげが受けられんというなら、いよいよおかげが受けられん事になってしまうじゃないかと。金光大神の実意丁寧。私共のいう実意丁寧とはそれこそ雲泥の差があると言う事なんだ、けれども教組の神様は、「皆んなもこの様なおかげが受けられる」と言うておられるのですから、どういう性分の人性格の人でも、やはり教えを行ずる事によって辛抱が出ける、その中になら一貫して言える事は。
 私三代金光様がね、仰っておられるように「信心には辛抱する事が一番大切で御座居ます」とおっしゃっておられる。ならば私のように辛抱力のなか者であってもです、やはりそれをおかげを頂いておるうちに、神様が辛抱させずにおかん働きが起こって来て、そして辛抱する事の喜びが分かって来た、楽しみが分かって来た。ここは私は例えどのような性格、陰のような人でも陽のような人でも。ここん所のいうならば信心辛抱の徳というものを身につけられる生き方をしなければならない。
 それはねいつも申します様に、人間はこの世の事だけではないこの世だけの幸せじゃない。あの世までもその幸せがつながっていきたいならば、信心がそう言う事を教える事が宗教だというならばです、私共はそこに着眼して、なら辛抱力をもっておかげを頂けば、ね、心が助かり一切が助かって来ると言う様なおかげを頂く事になればです、ひとつ本気でそれこそ泣く泣くでも辛抱力を作らしてもらう。
 どんなに金光大神のようにあらなくて、実意丁寧ではなくても、いうならばづるとかろくそなとか、汚い心持っておるもんでも、辛抱力だけはいわゆる信心辛抱力だけは作る精進をしなければ、神様へ向かうても本当なおかげにはならないと言う事、だから辛抱しきれんごたる時 はぁここはこれだけはいっちょ実行しなければいけんと言う風にね。辛抱していってるうちに、神様がね、なら私が言ってますようにねやはり御神前に出るのに紋付袴、そして白足袋をはかなければならん様に段々なってくる。
 夜中に出て来る時なんかも、いうならやっぱ面倒臭い寝巻で又これを替えなん、それでもやはり御神前に出てくるからには、紋付袴を着けなければ出て来れないような心が出来てくる、やはり辛抱しておったおかげである。私のこの梅の紋は、私の大坪家のはこれに輪がついておる。ところがこの輪があっては大きくなれない、いうなら我と言うものでしょうかね、我を取らなければこの大きくなれない。
 なら大きくなる手立てというのは、私は今日それだけしか頂いていませんでしたから 段々大きくなっていくもんだと思っておったところが、決して只ジ-ッとしとった分じゃ大きくならんですよ、信心のお徳を受けてまず神徳を受けなければならない、人徳を受けなければならない、金の徳、物の徳、健康の徳、これを五徳という。五徳というのは昔火鉢の中にこう入れたあれが五徳というのですね。熱いところにジ-ッと差し込まれてもジ-ッと我慢しとるでしょうが五徳は。
 これが火の中水の中じゃろかと言う時でも、ジ-ッと辛抱すると言う所に始めて五徳が揃うんです。そこでなら今五つの事の例を申しましたが、今日私は御神前で私のこの紋のですね、この二つか三つかがこんなに大きい、そのうを頂いて後は小さいのを頂いたね、だからやはりその五つの徳のどれかに梅と言う事は辛抱と仰るから、辛抱力が欠けとる所があるだろう、だから健康の徳を受けたいと思うならばです、言うならば私はあのうこのおかげを頂く為にもうお夜食だん絶対致ません。と言う様な修業を致しとります。
 やっぱり辛抱がいります。十二時までも一時までも起きとる時には何やら欲しうなるけれども辛抱致します。なら金の徳だってこれはもう徳を受けるためには、もう無駄使いどもするような事は絶対しません。買いたいと思うても辛抱します。と言う様にですいろんなその徳というものがです、頂くためにはこの五つの徳が足ろうて大きうならなければ、大きいおかげにはならないという事を今日は感じさせてもらいました。
 そしてこれは私だけの事ではなくて、今日皆さんに聞いて頂く御理解だと思いました。皆さん、この辛抱だけは出来るけども、この辛抱だけは出来んと言う事ではでけん、今五つ申しましたでしょね、金の徳、物の徳、人の徳、神の徳、健康の徳、この五徳がたらわなければ人間の幸福の条件が足ろうたとはいえません、為にはです私共がいろいろな意味に於て、そのどの点からいうてもね、辛抱力を作らなければいけないと言う事をね、今日は改めて思わせて頂きました。
 一つ五つの徳を身に受けさせて貰いましょう。此処には取次者が例えば、お神様の前を疎かにしておくという事はいけないぞと、こう教えておられるが。そんならその取次者私ここでは自身がおかげを受けて来た、今日はそれこそ金光大神の在られ方を研究するは、しても良いけども、それを自分のものにするという事は出来るはずがありません。赤のものを白にする事ですから。
 ですから私は私なりになら私がもう本当に自分のごたる、ふうたらぬくい男があるだろうかと思うておったけれども。よくよく分らして頂いて神様との交流が出けるようになったら、私のそのふうたらぬくさが、今日のおかげを頂いたというてもよいのですからね。神様が右に向け左に向けとおっしゃるとに反対の方どん向いとったら、今日の合楽は生まれとらんです。そりゃもういろんな無理難題がありましたけれどもね、それこそ泣く泣くでも神様のおおせに従ごうた。
 そりゃ私の心がふうたらぬるかった、神様に嫌と言い切らんやったから、今日の合楽は開けとるんです。そこにやはり私のあの辛抱がいったと言う事、私は辛抱力がないだらしがないふうたらぬくい、そういう私でもここまではおかげを受けられるから。此処へ参って来る人達はです、なら私をひとつの手本にしておかげを頂いて、私位な者ならば、皆さんなら絶対やろうと思えば出ける。金光大神の真似は出来なくても 大坪総一郎の真似は出ける。私はそんな風に思うんです。
   どうぞ。